美しき光景
電車の座席で、ゆずり、ゆずられ。
細い道で、すれ違いざま、ゆずり、ゆずられ。
大切なものを、ゆずり、ゆずられ。
日常の美しき光景。
この国も、まだまだ捨てたもんじゃないなぁなんて思う。
で、うっかり、濁点を忘れてしまうと・・・・・・。
電車の座席で、ゆすり、ゆすられ。
細い道で、すれ違いざま、ゆすり、ゆすられ。
大切なものを、ゆすり、ゆすられ。
日常の恐ろしき光景。
この国も、そろそろ捨てたもんじゃなかろうかなんて思う。
電車の座席で、ゆずり、ゆずられ。
細い道で、すれ違いざま、ゆずり、ゆずられ。
大切なものを、ゆずり、ゆずられ。
日常の美しき光景。
この国も、まだまだ捨てたもんじゃないなぁなんて思う。
で、うっかり、濁点を忘れてしまうと・・・・・・。
電車の座席で、ゆすり、ゆすられ。
細い道で、すれ違いざま、ゆすり、ゆすられ。
大切なものを、ゆすり、ゆすられ。
日常の恐ろしき光景。
この国も、そろそろ捨てたもんじゃなかろうかなんて思う。
((*お時間ございましたら、『読書感想文(1)』もご参照下さいませ。))
『読書感想文』、まぁ分かる。
『毒書感想文』、も、まぁ、百歩譲って分からなくもない。
『野糞感想文』、は、ちょとキツイ! でも、観察力は鍛えられるか?
子供の頃、夏休みの宿題の中で、読書感想文がとにかく嫌いだった。読みたくもない本を指定されて、「さぁ! 読みやがれ!」「さぁ、書きやがれ!」って言われているみたいで、大嫌いだった。
せめて、「自分に読めそうな本を自由に読んで、読書感想文書かせてくれや!」なんてよく思った。
いざ、年をとって大人目線に立ってみると、「子供時代に、いい作品に触れさせて、心豊かに育って欲しい」と願っていた、その当時の親や先生たちの気持ちも分かるような気がする。
と、同時に、逆に、子供たちには有害だの、毒だのと言われている、有害図書を読ませてみたら、一体、どんな読書感想文を書くのだろうか? なんて、ちょっと思ったりもする。
教育上、正統派の「読書感想文」もいいけれど、たまには「毒書感想文」も、子供たちには刺激があっていいかもしれない。「読書感想文」は嫌いでも、「毒書感想文」なら、今まで大人しかったのに、妙に積極的に食いついてくるおませちゃんやスケベっ子たちも、しゃしゃり出てくるかもしれない。
勉強のきっかけなんて、案外そんなもんだったりする。
好きな異性と同じ学校に行きたいからとか、好きな異性が外国人だからとか、男も女も、猛勉強の根底には、そういうエロ心や下心が爆発的に作用する場合がある。
で、子供たちが読んだエロ本などの感想文を、大人たちが読んで、大人たちがどう思うのか、ちょっと興味のある実験でもある。
「このアングルで、こういう表情で撮れば、エロさが増すのになぁって思いました」とか、専門家顔負けの感想文でも出たら、大人は驚くが、もしかしたら、その子にとっては、世の中のものを見るときの姿勢が、より一層深くなるきっかけになるかもしれない。
「新しい!」と思えるものに感動することがある。
「古い!」と思えるものに感動することがある。
感動の種類としては、「画期的!」「斬新!」と、新しいものを絶賛したり、「伝統の重み!深み!味わい!」と、古いものの重厚感に圧倒されたり、質的には違っていたりする。
で、時代のサイクルが一回りした感があるときに、古いものを新しく感じたり、古いものをアレンジしたりして、また新しいものができたりする。
時代も変わって、人の性質も変わってきているとは言うものの、古くからある名作と呼ばれるものを読んだりすると、「昔の人も、今の人も、同じようなことで悩んだり、つまずいたり、うれしかったりなんだなぁ」って思うときがある。
そういうときって、何かこう、時代を越えた、人間の根本みたいなものに触れた気がして、何かうれしくなったりする。
よくラブソングなどで、誰よりも君が好きだとか、愛しているとか、思っているとか、何とかかんとかって聴くことがある。
で、私は、「実際、本当に、世界中の誰よりも好きなのか、愛しているのか、思っているのか、その『愛情の深さ』と言うのか、『好き好き度』みたいな数値を測ったことあんのんか?」って、ときどき聞いてみたくなる。
家庭用の体重計とか、血圧計みたいな、『愛情計測器』のような感じの、簡単にそういうのを測れる計測器があれば、売れるかもしれないなぁなんて、思ったりもする。
売れるかもしれないが、もめるカップルや夫婦が増えるかもしれない。
で、欠かさず、出会いからずっとその数値を記録していけば、人間の愛情に関する、かなりリアルな折れ線グラフ(データ)ができあがりそうだ。
で、そのデータを、パートナーと一緒に眺めたら、「余計なデータが、出ーた!」なんて・・・・・・、失礼いたしました。
お後が、よろしいようで・・・・・・。
「有名な学校に入るぞ!」という生き方もあるかもしれないが、「有名な学校にしてやるぞ!」という生き方もいいんじゃないのかな?
でも、結局のところ、有名・無名って、そんなに問題ではなかったりする。
おもろい奴は、どこにいてもおもろいし、イキイキしてる奴は、どこにいてもイキイキしてる。
それは、学校に限ったことではない。
何事も、自分に合ってるか?合ってないか?
ブカブカの服やチッチャすぎる服、ブカブカの靴やチッチャすぎる靴、それより、自分にフィットしたものを選ぶ方が、着心地もいいし、履き心地もいい。それに、動きやすく、機能的だったりする。
シンプルに考えた方がいい。
入学試験や資格試験を受けなければよいのです。
「え? 『試験を受けなければ自動的に不合格になるじゃないか! 不戦敗みたいなもんじゃないか!』って?」
その試験自体に、申し込まなければよいのです。
その入学試験や資格試験自体に申し込まなければ、合格・不合格以前に、試験を受けることすらできないのです。一喜一憂する心配もなくなります。
好きな相手が、たまたまチョロッ!と鼻毛が出ていたりすると、「ま、そんなときもあるある!あるよ!うう~ん、全然ダイジョウブ!ダイジョウブよ!むしろ、かわいげがあるじゃない!」なんて、全面的に肯定して、全面的に許せたりする。
ところが、嫌いな相手が、たまたまチョロッ!とでも鼻毛が出ていたりすると、「たまたまもへったくれもあるかい!そんなもん!おのれ、何、鼻毛出しとんじゃ!おちょくっとんのんかい!ワレ!」なんて、全面的に否定して、全面的に許せなかったりする。
人間って、不思議な生き物である。
子供の頃、年輩の先生も、若い先生も、私たちにとっては、間違いなく先に生まれた『先生(せんせい)』だった。
私たちが年をとって、何かを学ぼうとしたりしたときに、教えてもらうのは、自分より若い人だったりするので、その場合『後生(こうせい)』って呼ばないといけないのではないだろうか?
年輩・年少など関係なく、立場的に『先生』の人に、いくらこちらが年輩だからといって、その先生を、「後生(こうせい)!後生(こうせい)!」って呼んだりしていたら、第三者からみたら、「先生に向かって、あーせー!こーせー!」と言っているみたいで、態度がえらそうな生徒に見えるのだろうな。
「その分野・その世界において、先に生きている人」として、『先生』って呼ぶならば、納得はできる。
外出時に、用を足したくなると、私たちはあちこちのトイレを使わせてもらう。
大きい方の用を足したくてトイレに行き、誰もいなかったとき、私たちは、「あ、こりゃええわ!ゆっくり落ち着いてできるわ」と安心する。
「さっ!いざ!」
と、私たちは構え、お腹の具合を何となく感じつつ、「来たぞ!ん?これは先におガスがラッパのように響きわたりそうだ!」なんて、思った瞬間!ワイワイガヤガヤ~~っと賑やかなしゃべり声の団体らしき人ごみが、トイレに押し寄せてきたりする。
すると、何となく遠慮がちな気分になり、「いざ!ラッパ音爆裂!」の瞬間に、ラッパの口元をすぼめたりするもんだから、微妙な「クスン・・・・・・」なんて、不発に終わってしまったりする。
で、その遠慮がちなラッパ音に、団体さんがクスクス笑ったりすると、こちらまで笑けてきたりする。
で、その団体さんも私に気を遣ってか、遠慮がちにクスクス笑いを続けて下さると、私もその一枚戸の向こうの、気を遣って下さっているその光景が頭に浮かび、クスクス笑いが止まらなくなったりする。
で、当然お腹には、爆裂音を出し損ねたおガスがたまっているので、腹筋をクッ!クッ!クッ!と力んでしまうと、おちょぼ口なラッパの口元から、小出しに、「プップップップップップップップッ・・・・・・」なんて、息を殺して笑っている自分のリズムに合わせて、ラッパを小出しに吹いたような音になったりする。
「俺は、ポンポン船か?!」
なんて思うと、そんな自分にまた笑けてきて、また、残りのおガスが、
「プップップップップップップップップップ・・・・・・」
「おい!おっさん!」
と言えば、えらそうに言っているようだけれど、実は「さん」付けしていたりする。
「おい!おばはん!」
と言えば、えらそうに言っているようだけれど、京都で「舞妓はん」って言うように、実ははんなり、ほっこり、「はん」付けしていたりする。
現在のところ、結婚だ!離婚だ!交際発覚だ!別れただ!できちゃっただ!出産だ!とか、病気だ!入院だ!退院だ!、卒業だ!入学だ!、旅行行ってただ!帰国しただ!などなど、公的なことではなく、日常生活において、誰もが私的に起こりうるようなことでわざわざ記者会見をして、ワイドショーで取り上げられるのは、主に有名人に限られている。
「それは、有名人だから、当たり前!」みたいな認識が、世の中には勝手に蔓延しているが、「何が当たり前やねん!」と、ときどき疑問に思う。
有名人と言っても、結局のところ一個人でしかない。有名人だろうが、無名人だろうが、一個人の私的なできごとでしかない。それを、何でわざわざ騒ぐ必要があるんだ?
全世界のすべての人のそういった私的なできごとで、いちいち記者会見を開き、報道される世の中になれば、不公平感はなくなるが、すべてのメディアは記者会見番組だけで毎日が終わってしまう。
それも、二十四時間ぶっ通しでも、足りないぐらいだ。
大相撲の巡業が街にやって来ると、街でときどきお相撲さんを見かける。そのときはいつも、「おっきいなぁ~!」とか、「ごっついなぁ~!」とか、「あ、このお相撲さんやったら、背だけは俺の方が勝ってるなぁ~!」とか、いろんなことを思う。
誰もが親しみを込めて呼ぶ、『お相撲さん』。
この『お相撲さん』という言葉、よくよく考えてみると、不思議な言葉だなぁと思う。
『お相撲さん』と言えば、イメージも湧くし、まさに、はまり言葉だなぁと思う。
同じくプロとして、スポーツを生業としている人たちでも、『お野球さん』とか、『おサッカーさん』とか、おかしな感じであるし。
じゃあ、個人スポーツと、団体スポーツでは違うのか?と言えば、そうでもない。
プロゴルファー、プロボクサー、英語的な言い方はあるにせよ、やはり、『おゴルフさん』とか、『おボクシングさん』とか、おかしな感じである。
じゃあ、日本で生まれたスポーツと、海外で生まれたスポーツでは違うのか?と言えば、そうでもない。
『お空手さん』、やっぱりイメージとしても湧かないし、響き的にもしっくりこない。
『お相撲さん』、はまるべくしてはまった言葉のような気がする。
地球儀を眺めると、世界地図同様に、いろんな国の位置を確認することができる。
少し違う言い方をすれば、そのときの視点というのは、宇宙から地球を眺めている視点となる。
そして、日本の位置を確認すると、「日本って小さいなぁ~」なんて思う。
その小さい日本の中の、自分の住んでいる都道府県を見ると、「もっと小さいなぁ~」なんて思う。
そして、そのもっと小さい都道府県の中の、自分の住んでいる市町村を思うと、「もっともっと小さいなぁ~」なんて思う。
そして、そのもっともっと小さい市町村の中の、自分の住んでいる部屋は、「もっともっともっと小さいなぁ~」なんて思う。
そして、そのもっともっともっと小さい自分の住んでいる部屋の中の、自分という存在は、「もっともっともっともっと小さいなぁ~」なんて思う。
そして、そのもっともっともっともっと小さい自分という存在の中の、悩みごとというのは、「もっともっともっともっともっと小さいなぁ~」なんて思う。
でも、そのもっともっともっともっともっと小さいはずの悩みごとが、私たちにはとても大きなことだったりして、毎日、右往左往したりしている。
まず、地球の球体を想像してもらいたい。
そして、北極点と南極点を想像してもらって、次に地球の真ん中にあるマグマの存在は一旦無視をしてもらって、まさに地球の球体のド真ん中にある点を想像してもらいたい。
私たちは、地球の中心に向かって重力が働いているおかげで、地球の表面に立ったり座ったり、寝転んだりしていられる。無重力だとフワフワ浮いてしまう。
仮に、北極点から、地球のド真ん中の点を通って、南極点に向かって、一直線に穴を掘り始めたとする。
当然、地球のド真ん中の点までは、感覚としては下に向かって穴を掘る作業になる。
そして、下へ下へ、地底へ、地底へと、掘って掘って掘りまくって、その地球のド真ん中にある点にたどり着き、その点に足をつけたとする。
まぁ、単純に考えて、その点を0(ゼロ)点とした場合、言わば、最も底の部分に立っていることになる。だから、感覚としては、0点が足裏にペタリと接していて、北極点の方が頭の方(つまり上の方)という感覚であるはずである。
で、その足裏にペタリと接している0点を、さらに掘り続けた場合、北極点の方を頭の方(つまり上の方)という感覚で掘り続けた場合、南極点まで、下の方を掘り続けている感覚で掘り続けられるのだろうか?
まぁ、単純に考えて、地球の中心に向かって重力が働いているので、いつの間にやら上に向かって掘っているような感覚になっているはずなのである。
地球のド真ん中の点を、身体のド真ん中が通過するときにでも、やはり身体がクルリ180度回転でもするような感じで回るなりして、南極点側が頭の方(つまり上の方)という感覚になってしまうのだろうか?
でも、その場合、地球のド真ん中の点を突き破って、北極点の方から一直線に穴を掘り続けているので、仮にクルリと身体が180度回転した場合、感覚としては南極点に向かって、上に穴を掘り続けているような感覚になったとしても、北極点の方に向かって足をつける土の部分がないはずなのである。では、足をどこにもつけることなく浮いていられるのだろうか?
まぁ、仮に穴の壁面を両足で踏ん張って、ある程度のところまで、南極点に向かって、上に向かって掘り続けて、パッと足を離して、北極点の方(つまり下の方)に向かって、地球のド真ん中へ落下していったとしたら、やはり地球のド真ん中の点で止まるのだろうか?
その場合、叩きつけられる土の部分がないはずだから、地球のド真ん中の点で、フワッと浮くような感覚で、落下が止まるのだろうか?
子供の頃からの疑問である。
『世界の中心で愛を叫ぶ』人は、既にいるので、可能であれば、地球のド真ん中の点を通過して、北極点と南極点を一直線に結ぶ穴が掘られたときに、『地球の中心で、助けて~!と叫ぶ』ようなことをしてみたい気がする。北極点から垂らされたロープ、南極点から垂らされたロープを、片手ずつ握って、身体が引きちぎられない程度のゆるい同じ力で、同時に引っ張ってもらったら、上とか、下とか、どんな感覚なんだろうか?
『まな板の鯉』と聞けば、まな板の上にのせられている鯉の映像を思い浮かべることができる。
『の』を挟んで、言葉(名詞)を入れ替えてみると、『鯉のまな板』となる。すると、思い浮かべる映像となると、鯉の形をしたまな板か、あるいは、とっさにまな板がいるときに、その場にないもんだから、そこにあった鯉をまな板代わりに敷いて使っているのか、そんな映像になってくる。
『おまえはあほか』はどうだろう?
語尾に『か』ときているので、一応は訊ねているんだろうけれど、日常的な用途を考えて、『!』つけて『おまえはあほか!』と言えば、目の前にいる一人に向かって、ある種断定的にあほだと決めつけて、相手にぶつけるような、吐き捨てるような言葉になる。『?』をつけて『おまえはあほか?』と言えば、吐き捨てるというより、少々小バカにしたような言いぐさで、一人に投げかけているような感じになる。
これまた、言葉(名詞)を入れ替えて『!』をつけて、『あほはおまえか!』と言えば、目の前に何人かいて、まるで犯人を捜しているように、一人一人にキツク問いただしているような感じになる。『?』をつけて『あほはおまえか?』と言えば、怒りを抑えながら、目の前の何人かを順番に聞いていっている感じになる。
少しの入れ違いで、雰囲気が変わってしまう言葉。
世の中のもめごと、トラブルなども、ほんのちょっとしたことが原因で違う意味に解釈されて、大きな誤解を生んだりしていることも多いのだろう。
『誤解』という響きは、あまりいい感じがしない。やはり、日常生活において誤解はされない方がいいし、またどうしても解いておかなければならない誤解もある。
しかし、誤解されたままでもいっこうに問題のない場合もある。額面どおりに問題のない誤解と、疎遠になりたい相手から、誤解されたまま疎遠になられていった場合、むしろ、ありがたいことに誤解が役に立っていたりなんかする。
『文章を書く』と言えば、昔、学校で「『推敲』してから書きなさい」とか、よく言われたものである。その習慣から、ちょっと堅苦しく身構えてしまう方もいらっしゃるかもしれない。
確かに、論文や出版原稿など、きっちりと練り上げて書かなければならないものは、推敲も重ねて、校正に校正を重ねて、出来上がってくるものだと思う。
私が、日々書き綴らせてもらっているこのブログ。
このブログに関して言えば、『そのときのアイデアの思いつき』を大切にしているので、正直あまり『推敲』は重ねておらず、むしろ、『思いついたときの瞬発力』を、そのまま公開させてもらっている感がある。
なので、多少、いびつな文章もあるけれど、ま、それはもし書籍化でもするとなった場合にでも、加筆・修正するかしないか考えたいと考えている。
でも、推敲を重ねて書いた文章がいつもいいと決まっているわけではなくて、それよりも、いい・悪いは別として、「瞬発力で書いたときの文章の方が、イキイキしていたりするなぁ」なんて、思うこともよくあったりする。
そう考えると、もしかしたら、妙に体裁の整っている気取ったラブレターよりも、文章が多少行ったり来たりしていても、そのときの心の機微というか、心の動き、揺れている正直な思いなどが綴られたラブレターの方が、うそがなくて、ダイレクトにその生々しさが伝わるのかもしれない。もちろん、受け取る側の性格も考慮しなければならない場合もあるだろうし、またその相手に、出す側の性格がある程度理解してもらえている場合ではあるだろうから、すべてのラブレターにはあてはまらない。
それは、大人が描く小奇麗な絵も、それはそれでいいのだけれど、ときとして、子供の描いた思いきった絵が、人々の心を理屈抜きに捉えてしまうことがあるということに、似ているのかもしれない。
英語学習において、『英語脳』という言葉を、ときどき耳にする。
確かに、日本語をしゃべるような感覚で、英語もしゃべれるような人を見かけると、「あ、あの人、今、英語脳でしゃべってるなぁ」と、感心してしまう。いわゆる、バイリンガルと言われる人たちは、自然に日本語と英語を使いこなしているので、本当にうらやましい。
ま、でも、そこまで達者に使いこなせるレベルの話でなくても、例えば、英語の学習をしようと思っているときに、「さぁ、英語に取り組むぞ!」ぐらいに、頭の中がモードチェンジというか、英語を学習するぞ!というスイッチが入っていれば、バイリンガル並みではなくても、『英語脳』に近い、英語受け入れ態勢にはなっていると思う。
つまり、頭の中の状態が、それに集中する態勢になっていれば、学習効率も変わってくるということになる。
『英語脳』、英語スラスラ、『英語脳』。
『英語、NO!』、英語モタモタ、『英語、NO!』
英語学習に限らず、集中力がないときは、何をやっても効率が悪い。
テレビのものまね番組ってけっこう好きで、昔からよく観ていたりする。
『ものまね』『ものまね(物真似)』って言うけれど、実際のところ、『物』のまねより、『人』のまねの方が主流だったりする。
『ものまね』という言葉は、物や人・動物など、あらゆるものを含めて、『真似る(まねる)』ことを意味するのだろうが、一般的に私たちは、『ひとまね』を『ものまね』と思っている節はないだろうか?
けっこう、そういう点は見落としがちだったりする。
『面(つら)』が『白い』と書いて、『面白い(おもしろい)』。
もし、真剣に舞を舞ったり、演じたり、衣装をまとっている、舞妓さんや、歌舞伎役者さん、和装の新婦さんなどに、指差して、
「あっ!面白い!」
なんて言ったら、怒られるのだろうか?
私は一度見てみたいCMがある。
TVやラジオなどの通信販売のCMなどでは、「今回は特別価格でございまして・・・・・・」という空気で話が進められて、「通常価格いくらいくらのところを、今回は何台限りで、こんなにお安いお値段で!」みたいなところに落ち着いて、「今、お買い上げ頂きますと、もれなくこのような特典が付いてまいります」といった具合になる。
私は、その逆を行くようなCMが、一度見てみたいと思っている。
こんな感じである。
「通常税込価格1,050円のところ、今回は特別に、105,000円での割り増し価格にて大ご奉仕!数量限定ございません!今ならお得なおまけ付きなどといった、そんな気の利いたような特典なんて、一切ございません!是非この機会にお試し下さいませ!」
それでも飛ぶように売れるなら、それはほんとに価値のある商品なのかもしれない。
イスの中でも、特に自転車のサドルというのは、お尻に埋もれてしまう感のあるイスである。
もし、あなたがサドルだったとして、顔面を上向きにしているところへ座ってこられて、窒息死してしまうかもしれない運命だったとしたら、どのようなお尻であれば、万が一、窒息死したとしても、この世に未練は残らないと思うだろうか?
チラシの裏紙や、いらなくなった資料の裏紙などを、よくメモにしたりする。
チラシや資料としては、もういらない紙なので、その用途としてはもう値打ちは下がっているのだけれど、その裏紙にかなり重要なことをメモした瞬間、その紙の値打ちがたちまち浮上する。
大事な電話番号を書いた紙をなくさずにいるかいないかで、結婚まで行ってしまう人・行かない人、大商いになる人・ならない人、あるいは、生きるか・死ぬかの運命をも左右することだってあるだろう。
たかが、メモ、されど、メモ。
今や、お年寄りの方でも、普通にCDとおっしゃるようになった。
キッチリと言えば、『コンパクトディスク』なんだろうが、まぁ、一般的にCDショップにCDを買いに行くのに、「コンパクトディスクショップに、誰それのコンパクトディスクを買いに行ってきます」と、かなりキッチリと言う人は少ないだろう。
このまえ、CDショップに行ったとき、おじいさんが何やらCDを探していたらしく、店員さんにその場所を聞いていた。
「あ、兄ちゃん、すんまんせん!」
「はい、いらっしゃいませ!」
「演歌のコンパクトディスコ探してんねんけど、どこかいなぁ?」
「はい、あちらでございまして、ご案内いたします」
おじいさんは、店員さんのあとについて行った。
『演歌のCD』と言って下されば、私の耳には残らなかったが、『演歌のコンパクトディスコ』と来た!そして、おじいさんは、「ご案内いたします」と、店員さんにご案内されて行ったのだ!
もしかしたら、店員さんとおじいさんのあとについて行けば、『演歌』が思いっきりかかっている『コンパクトな(小さな)ディスコ』に辿り着くんじゃないだろうか?!と、一瞬ワクワクしてしまった。また、どんな人たちがノリノリに踊っているのか興味津々に見てみたい気がした。
しかし、本当に、『演歌』が思いっきりかかっている『コンパクトな(小さな)ディスコ』があったなら、果たしてそこで、人々はフィーバーできるのだろうか?踊れる広さはあるのだろうか?
キッチリ言おうとされていた、あのおじいさんは、きっと几帳面な方なのだろう。
ま、でも、『コンパクトディスコ』とおっしゃったので、まだ若いおじいさんなんじゃないだろうか?『コンパクトデスコ』とおっしゃれば、さらにお年を召したおじいさんな感じがしていただろう。
『演歌』の『コンタクトディスコ』とか『コンタクトデスコ』とかおっしゃってたら、もうわけが分からなくなってくるが、おそらく、『演歌』のかかっている眼鏡禁止のコンタクトレンズ着用者専用のディスコに案内されたかもしれない。
あるいは、『演歌』の『コンパクトデスク』とか『コンタクトデスク』と、おっしゃってたら、もしかしたら、『演歌』のかかっている家具屋さんに案内されたかもしれない。
「あなたを思う」・・・・・・、
なんて書くと、何やら恋愛感情を抱いている相手のことを思っているような光景を思い浮かべてしまう。
やはりそれは、自分が今まで生きてきた中で、直接恋心を抱いた相手に、純粋に抱いた感情を表現したときに、そういう表現になったということもあるだろうし、ラブソングの中によく出てくる歌詞の影響を受けていたり、恋愛ドラマや映画の中で出てくるセリフが知らず知らずに刷り込まれているからだろうと思う。
でも、よくよく考えてみると、ただ「思う」としか言っていなかったりする。
「私はあなたのことを好きだと思う」
「私はあなたのことを嫌いだと思う」
「私はあなたのことをスケベな奴だと思う」
「私はあなたのことをいやらしい奴だと思う」
「私はあなたのことをおもしろい奴だと思う」
などなど、例を挙げ出したらキリがないが、「あなたを思う」を具体化すれば、いろんなバリエーションが生まれる。
「あなたを思う」・・・・・・。あなたをどのように思おうと、「あなたを思う」には違いない。
「私はあなたのことをいい人だと思う」
誰かからそう思われるのは、人としてうれしい限りではあるが、シチュエーションによっては、交際を断る便利な言葉であったりする。
強烈に寒い日、私たちは、暖かい店や部屋、車の中などにいると、外へ出るのに躊躇することがある。
また逆に、強烈に暑い日、私たちは、よく冷えて快適な店や部屋、車の中などにいると、外へ出るのに躊躇することがある。
わずかその扉や戸、ドア一枚、ガラス一枚向こう側の世界なだけなのに、飛び出すのには、大変な勇気を必要とするときがある。
あるいは、壁をぶち破って外へ出るというのは、もっと困難なこと。やっとの思いで出てみたけれど、厳しい世界が広がっていて、全然歯が立たなかったりする。
何か一枚向こう側。そのわずか一枚向こう側という世界に、人は情熱を駆り立てられたりする。
それが何なのか?
人それぞれであっていい。
神社のことを日常的によく『お宮さん』と言うことがある。『○○神社』、『○○大社』、『○○神宮』など、正式にはいろんな名称があるだろうが、地元の人にすれば、大概は『お宮さん』なのである。
その『お宮さん』に、たくさんの人々が、お正月には初詣、赤ちゃんが生まれたときにはお宮参り、子供の成長とともに七五三、などでお参りしたりする。あるいは、企業やプロスポーツ選手など、団体参拝というのもよくある光景である。
しかし、『こ宮さん(子宮さん)』には、家族そろってとか、たくさんのお友達と一緒にとか、企業やプロスポーツ選手などの団体参拝はできなかったりする。
一般的には『一人の息子さん』ではなく、『一本の息子さん』だけがお参りされるようである。
もちろん、特殊なケースでは『複数本の息子さん』がお参りされる『団体参拝』もあるのかもしれないが、ま、それは、世の中に例外はつきものということで。
普段、私たちが何気なく接している新聞。
よくよく見てみると、『新』しく、『聞』く、と書く。
細かい意味合いや歴史的な背景・事情はあるとは思うが、それらを一切無視して、単純に、字だけ追って考えてみれば、おそらく大概の人が、『新しい情報を聞く』みたいな感じで、『新聞』を捉えるのではないだろうか?
でも、実際に私たちは、『新聞』を通して、『新しい情報を聞く』のではなく、『新しい情報を読んでいる』のである。
なので、本当は『新読』にしなければいけないのではないのか?なんて、思ったりもする。
しかし、『新聞』をやめて、『新読(しんどく)』にすると、読む前から、『しんどく』なってしまうような気がする。
喫茶店などに入って、笑顔がステキな、愛想のいい、きれいな店員さんにお冷やを入れてもらうと、お冷やも本当においしい。そして、その笑顔のまま、
「ご注文お決まりでしたら、お伺いいたします」
なんて、注文を聞きに来てもらったときに、
「おネエちゃんに、お冷や入れてもらったら、ほんま、お冷やがおいしいわ。せやから、お冷やだけでええわ!」
なんて言ったら、その笑顔はどうなるものか?!一度見てみたいが、私にはできない。
何の下心もなく、たまたま入った喫茶店などの店員さんがとても愛想がいいと、お冷やもおいしく感じてしまう。ちょこちょこ飲んでは入れてもらってちょっとしゃべったり。次回、その店の近くへ来ることがあったら、是非また来ようなんて思ってしまう。
で、行けるタイミングが来て、「あの店員さんいるかなぁ?」なんて、若干の下心を持って入ると、大概その日はいなかったりする。
人生にはそういう法則みたいなものが、あるのかねぇ?
「このパイおいしいね!」
と言えば、洋菓子のパイを思い浮かべる。で、この類の表現だと、一般的に普通サイズとされる大きさのパイ、もしくは、一口サイズのパイをかじってみて感想を述べているような光景を思い浮かべる。
で、もし、普通とされるサイズより、多少なりともデカいサイズのパイをかじってみたときに、同じくして「おいしい」と感じた場合はどうだろう?
「このデカパイおいしいね!」
と、なるのだろうか?
デカいパイだから、『デカパイ』で別段問題はない。しかしながら、ことのほか、私は違うことを思い浮かべてしまう。
では、数学でよく使われる、皆さんおなじみの『π』。「2π(にーパイ)」だの「3π(さんパイ)」だの言っているときは、特に何とも思わないが、うっかり「ππ」なんて書いていて、「パイパイ」なんて読んでしまうと、別段問題はないのだけれど、私は違うことを思い浮かべてしまう。
また、この『π』の文字を、デカいサイズで書いて、やはり「デカパイ」と読む人がいた場合、やはり問題はないのだけれど、私は違うことを思い浮かべてしまう。
ここまで思い浮かべたついでに申し上げるならば、女刑事(デカ)さんのおっぱいを短く表現するならば、やはり、「デカパイ」なのかなぁ?と、思ったりなんかする。大きさはどうであれ・・・・・・。
「ひざ枕」と聞けば、人々はどのような絵を思い浮かべるのだろう?
昭和レトロな感じで言えば、縁側でひなたぼっこしながら、旦那が女房のひざ枕で横になり、耳掃除をしてもらっているような絵。耳掃除の代わりに、風鈴の音色を聞きながら、女房にうちわでゆっくり扇いでもらっているような絵。
あるいは、時代劇で言えば、銭形平次が火鉢のところで、これまた女房のひざ枕で横になり、耳掃除をしてもらっているような絵。
だいたい、そんな感じだろうか。
しかし、今、例に挙げた絵を、よくよく考えてみると、「これは『ひざ枕』ではなく、『太もも枕』なんじゃないのか?!」って、言いたくなってきたのである。
つまり、ひざ枕を望むなら、この場合だと、女房には正座じゃなくて、足を伸ばしたまま座ってもらって、ひざの皿の上に頭を乗せさせてもらわないと、ひざ枕は成立しないではないか!
「ひざ枕して!」と頼むのは、サラサラッと、あっさり感があるが、「太もも枕して!」と頼むのは、何となくピンク色な感じがする。
『たま』と言う響きは、とても不思議な響きだなぁと思う。
サザエさんの家のネコも『タマ』で、愛すべきキャラクターとともに、その響きも非常に心地よい。
「偶然通りかかりましてん」などと言いたいときに、それを「たまたま通りかかりましてん」と言い換えても、「あ、そうなんだ」ぐらいのリアクションで、普通に聞き流せる普通の響きである。
しかし、その『たまたま』を、ものすごく意味有り気に、ニヤッとしたような表情や雰囲気で言うと、口から発しただけの目には見えない言葉なのに、何だか急に、その言葉自体が球状に丸みを帯びだしてくる。
ビリヤードのことをよく『玉突き』と言う。普通にサラッと「玉突き」と言う分にはビリヤードなのだが、これまたものすごく意味有り気に、ニヤッとしたような表情や雰囲気で言うと、男としては、木で小突かれたような感じで、何となく股間が痛くなるような感じになる。
運動会でおなじみの『玉入れ』。普通にサラッと「玉入れ」と言う分には、子供たちが無邪気に紅白の玉をカゴの中に入れ合う定番プログラムなのだが、これまたものすごく意味有り気に、ニヤッとしたような表情や雰囲気で言うと、男としては、「一体大事な玉をどこに放り込まれるのだろう?・・・・・・」みたいな感じで、何となく股間を保護したくなるような不安がよぎってしまう。あるいは、男子児童たちが、無邪気に自分たちの『タマタマ』を引きちぎってカゴに向かって放り投げているような光景を思い浮かべたりなんかしてしまう。まさに、命がけの運動会。小学生の運動会にしては、迫力がありすぎる。
卒業式を終えた学生さんを見かけると、
「学生生活、この子は完全燃焼で卒業できたのかなぁ?あるいは、不完全燃焼での卒業なのかなぁ?」
ついついそんなことを思ってしまう。
私の学生生活は、完全に不完全燃焼だった。『完全に不完全』とは、ちょっと変な響きに聞こえるかもしれないが、いまだその火がくすぶっている感がある。
だからと言って、不完全燃焼の火がくすぶっているその時代に戻ってやり直せるわけもなく、今あるのは『現在(いま)』しかない。
せめて、この世を卒業するときは、「完全燃焼した!」という気分で卒業したい。
まさに、長寿番組『サザエさん』。日曜日の夜、子供の頃は、ほぼ毎週見ていたような気がする。
エンディング曲が終わるとき、サザエさん一家全員が、家に入って、家が弾んで、鍋のふたをトンカチで叩いたようなゴングみたいな音が鳴って、エンディング曲が終わる。その瞬間、子供の頃は、「あ~、日曜日が終わる。休みが終わる。明日から、また学校で勉強せなあかんのかぁ~」なんてよく思ったものだ。
大人になってからも、年に何回かは見ている。やっぱり、エンディングで、サザエさん一家が家に入ると、おもしろいもので、「あ~、日曜日が終わる。休みが終わる。また、仕事かぁ~」なんて、子供の頃と同じような気持ちになる。
サザエさんを見るときは何気なく見ているのだけれど、よくよく考えてみると、自分自身はというと、タラちゃんの年を抜き、ワカメちゃん、カツオくんの年も抜いている。そして、タラちゃんの年を考えてみると、サザエさんやマスオさんぐらいの年、あるいはそれを抜いているぐらいの年になっているのである。
そんなことを考えていると、一瞬、ドキッ!としてしまった。
で、ワカメちゃんや、カツオくんの年齢を考えてみると、フネさんや波平さんぐらいの年、あるいはそれを抜いていてもおかしくないのかぁ?なんて考えたときには、ウッ!というか、エッ!というか、ちょっと、ゾッ!とした。
街ですれ違う人。すれ違う車やバイク・自転車・バス・電車に乗っている人。見かけた飛行機や船に乗っている人。家やビルやその他の建物の中にいる人など、あらゆるケースをも含めて、自分の人生の中で、たとえ一瞬でも、視界に入ったとか、近くに存在したという理由で、「人生で出会った人」として含めると、私たちは、一体、生まれてから死ぬまでに、何人の人と出会うのだろう。
上記のような縁だけで、終わってしまう出会いもあれば、知り合い、親しくなり、友達になる縁。恋人になる縁。夫婦になる縁。親戚になる縁。親子になる縁。祖父母になる縁。孫になる縁。先生と生徒になる縁。師弟関係になる縁。経営者と従業員になる縁。同僚になる縁。クラスメートになる縁。先輩になる縁。後輩になる縁。そして「交配」してしまう縁(笑)。まさに、言い出したらキリがないほど、いろんな縁がある。
自分が生きている時代に、同じく地球上に生存し、面識を持つだけでもすごいことなのに、なおかつ、もっと「深い関係」になるということは本当にすごいことである。
どうせなら、「不快関係」より、「歩快関係(快く歩みを共にするような関係)」を築きたいものである。
しかしながら、悲しいかな、人間。欲と欲。我と我がぶつかってしまう。
二回連続で、『ボイン』の話が続いているので、せっかくなので、『三回連続、ボイ~ン、ボイ~ン、ボイ~ン!』っと、『ボイン三部作(?)』にしようかなと思う。
近頃では、すっかりテレビやラジオなどの影響もあって、『巨乳(きょにゅう)』という言い方が巷に定着している感があるが、言葉を発したときの、音の響きやその聞いた感じのインパクトは、やはり『ボイン』の方が、私個人としては、いいんじゃないかなぁ、と思っている。
あくまでも、私個人の見解ではあるけれども、漢字で、『巨乳』と書くと、『きょにゅう』と読む人もいれば、『きょちち』と読む人もいる。実は、私も二十代前半まで、どう読んでいいのか分からなかった。
『巨乳』と書くと、まぁ、おそらく、『巨大なお乳』ということなんだろうと想像はしているものの、『巨』という字が、どうもカクカクッ!と言うか、角ばっている感じがして、何だかコンクリートのかたまりのようなお乳のような感じに、私は受け取ってしまう。また、イースター島のモアイ像のようにも見えてしまい、何だかお乳の弾力感が損なわれてしまうように思う。
しかし、『ボイン』の場合は、字がどうのこうのと言うよりも、その音の響きから、まさに『ボイ~~~ン!』と、迫力が伝わってくるし、脳や心臓に、ドワワワワァ~~~ン!と、何だかダイレクトに伝わってくる感じがする。イメージとしては、除夜の鐘のような響きだろうか?
また、『きょにゅ~~~う!』とか、『きょにゅう~~~!』とか、伸ばして言ってみても、も一つ、空気に振動を与える感がなくて迫力がないけれど、『ボイ~~~ン!』と言えば、何だか、もっちゃり感があるし、ドッジボールの代わりに、丸めた毛布とか布団とか、あるいは、運動会の大玉ころがしの大きな玉を投げてこられたようなフンワリ感・やんわり感・弾力感がある。
お尻にしても、『ケツ』っていう響きより、『しり』とか、例えて『もも』なんていう響きの方が、弾力感があってやわらかい感じがしていいと、私は思う。『桃尻』なんて言うと、頭の中にイメージもしやすいし、やわらかいものが残って、気持ちも丸くなるような気がする。
ま、『ボイン』と言えば、やはり、月亭可朝さんの名曲『嘆きのボイン』が頭によぎるが、『桃』というか『お尻』の方は、何かインパクトのある名曲はないのだろうか?
日常使う言葉の、その言葉が持つ、言葉の響き、音の響きも、大事にしていけたらなぁと思ったりもする。
で、ここまで書いた文章を振り返ってみると、私は一体、何を力説しているんだ!と、首を傾(かし)げてしまう。
『ポインセチヤ』と言う花がある。
花屋さんの前なんか通ったときなんかに、花屋さんの店員さんやお客さんが、たまたまその花の名前を言っているのに遭遇すると、私はそれを言っている人が、何だかおっぱい好きで、『あたしゃ、ボインフェチや!』って、主張しておられるように聞こえてしまうことがある。
私が特別、『ボインフェチや!」と、主張しているわけではないけれど、ま、嫌いではない・・・・・・。『桃』も。
やはり、普段からスケベェなことを考えていると、ちょっとしたことでたどり着くのは、スケベェな発想なのだろうか?
自分では、『成人男性のごく一般的に標準的なスケベ具合の水準』をキープしていると思ってはいるのだが、こんなアホなことばっかり考えていると、ときどき自己嫌悪に陥ってしまうことがある。
でも、思いついてしまうものは、仕方がない。
『スケベェだもの』
何だか、相田みつを風に終わってしまうみたいだが・・・・・・。
横断歩道で信号を待っていたときのこと。私の他に数人おられた。
その中に、一人派手なおばちゃんがおられた。そのおばちゃんのお知り合いのこれまた派手な感じのおばちゃんが横断歩道に来られて、先からおられたおばちゃんに声を掛けられた。
「いやっ!奥さん!久しぶり~!元気にしたはったん?」
「あ、久しぶり~!元気、元気!」
こんな感じで、世間話を始められた。私も含めて周りの人たちも、聞く気はなくても、大っきな声でしゃべらはるので、聞こえてしまうという状態。
「奥さん、ええのん着たはるやん」
「いやいや、ちょっと派手やったかなぁ思てんねん」
充分!充分!充分過ぎるぐらい派手でっせ~!って、たぶんそこに居合わせた人たちはみんなツッコミを入れたかったんちゃうかな~って、感じだった。
「うぅ~ん、うぅ~ん、そんなことないよ~」
そら、派手なもん同士やったら、派手やないやろうって、聞いてたらおもしろくなってきた。
「ちょっとデザイン古いんちゃうかな?」
「そんなことないよ~。充分、ナウいやん!」
うわ~、久々に聞いたなぁ、『ナウい』やて~。何人か半笑いになっているのがこれまた笑けてくる。
「そう?」
「似合(お)てる、似合(お)てるよ。奥さんボインやし、ちょうどええやん!」
うわ~、『ボイン』やて~。外で聞くのって久々やなぁ~。さすがに、僕は笑けてしまったので、両手で鼻と口を覆って、何度か咳払いをしてごまかした。そしたら、何人か同じように咳払いをし始めた。
風邪って、ほんと、急に流行してしまうものなんだなぁ・・・・・・。
一般的に私たちは、服にしろ、下着にしろ、男性は男性モノ、女性は女性モノ、の衣類を購入する。
私たちは、何気なくその衣類を着ているけれども、もし、デザインや機能性云々の、男性モノ、女性モノという分類ではなく、その衣類自体に、オス・メスがあった場合、どんなことになるのだろう。
男性モノの衣類は、実はメスで、女性モノの衣類が、オスだったら・・・・・・。当たる部位によっては、服や下着自身が興奮してしまって、その機能を果たさなくなってしまうような事態が起こってしまうんじゃないだろうか?
つまり、服なら服、下着なら下着、としての仕事をしなくなってしまうんじゃないだろうかと心配してしまう。
服や下着に言わせてみれば、こんなところだろうか?
「そんなもん、仕事なんかしてられまっかいな!よすぎて!」
って、何がよすぎるんや?!・・・・・・
さすがに、書けません・・・・・・。
駅へ向かって歩いていると、少し前方に杖をついたおじいさんが、ゆっくりトボトボと歩いておられた。
同じく、私の後方から、ウインドブレーカーのすれるシャリシャリとした音が聞こえてきた。「誰か学生さんでも走ってるんやなぁ」なんて思っていると、駅の方から、「お~い!もう電車来んぞ!」と、同じくウインドブレーカーを来た学生さんが、私の後方から来る学生さんを呼んでいた。
「あ、たぶん俺も乗ろ思てる電車や!」と思い、私も走り始めると、前方で杖をついてゆっくりトボトボと歩いておられたおじいさんまでもが、左手に刀でも持って走っているかのように杖を持ち、しっかりした足取りで走り出した。階段なんて、一つ飛ばしのもうダッシュ!「え、ええっ!」って目を疑うとはこういうことを言うのだろう。私はあっけに取られた。
何とかギリギリ、学生さんたちも、おじいさんも、私も電車に間に合って、同じ扉のところに乗り込めた。ギュウギュウに混んでいたわけではなかったが、わりと混んでいて、席は空いてなかった。
おじいさんは、すかさず、杖をついたおじいさんらしい「おじいさん」のアイデンティティをしっかりと取り戻し、「おじいさん」であることに徹し始めた。
ほどなく、「おじいさん、お席どうぞ!」と、女子大生ぐらいのお嬢さんに席を譲られていた。「おネェちゃん、すまんねぇ。へぇ、おおきに!」と礼を言って、「ヨッコラしょ!」と足腰が弱そうに席に着いた。
電車に乗り合わせた人々は、この美しい光景に、心を打たれ、お嬢さんは光輝き、また席を譲らなかった自分に恥ずかしさを覚え罪悪感に苛まれている人もいたことだろう。
でも、私は見てしまった。おじいさんの一つ飛ばしの階段ダッシュを!
普段は、普通の「おじいさん」に変装している、あれは「忍者」や!
もし今度、あのおじいさんが、電車で座っている私の目の前に足腰弱そうに立ちやがって、「席譲ってくれオーラ」を出しやがったとしても、私は騙されないぞ!私は堂々と、いびきをかいて、よだれを垂らして寝てるフリをしてやろうかと思っている。
私は、悪人なのだろうか?
若者も、疲れているときゃ、疲れとんでっさぁ~。
私たちは、ご近所の人や街で知り合いに会ったりすると、相当うっとおしい間柄でもない限りは挨拶を交わす。
お互いが、あるいは、どちらかが自転車やバイクなどに乗っていたりなんかすると、すれ違いざまに、「おはようございます!」とか「こんにちは!」とか「こんばんは!」と、一言だけ挨拶を交わすような感じになる。
しかし、お互いゆっくり歩いているとき、少々離れたところでお互いがお互いを認識し合い対面状態になると、軽く会釈をして、「こんにちは!」とか先に一言かけて、さらに近づいてすれ違いざまに、「今日は寒いですねぇ」とか「今日は暑いですねぇ」とか、何かしら声をかけたりしながら、「そうですねぇ」とか相づちを打ったりして、通り過ぎて行く。
立ち止まってしゃべる気ならいろいろと話題はつきないだろうけれど、お互いに挨拶だけを交わして通り過ぎて行くとき、「こういうときって、ほんと、天気ぐらいしか話題がないんだなぁ」なんて、ときどき思ったりなんかする。一般的にみんなそうなんだろうけれど、ときどき自分自身で「芸がないなぁ」とか「ボキャブラリーが少ないなぁ」とか「何か他に話題を思いつかんもんかなぁ」と、自分自身が不甲斐なく思えたりする。
確かに、「今日は寒いですねぇ」を、「今日はかなり寒いですねぇ」とか、「今日はめちゃくちゃ冷えますねぇ」ぐらいのアレンジはするのだけれど、話している内容はやはり「天気」なので、天気がどうのこうのと言っている自分に、ときどき飽きてしまうときがある。
この状況、この空気間で、確かにお互いに共通している話題と言えば、天気ぐらいのものである。「天気」に飽きたからと言って、歩いていてすれ違いざまに、「おはようございます!今日もアスファルトは硬いですねぇ」とか、「おはようございます!今日もお互い生きてますねぇ」とか、「おはようございます!今日の空気は昨日より2%ほど二酸化炭素の量が多いように思いますねぇ」とか、言葉を交わすのも変な感じだし・・・・・・。
でも、何か、すれ違いざまの一瞬トークに、もうちょっとバリエーションが欲しいなぁ・・・・・・。
私たちは、特急や急行などの快速電車に乗り込めたときは、目的地が多少遠くても、各駅停車の電車とは違い、停車駅が少ない分、そんなに遠くは感じない。物理的な距離としては遠いのだけれど、心理的な距離としては、近いところへ行くときと、さほど変わらない。
しかし、特急や急行などの快速電車に乗り込めて、「発車しま~す!ドア閉まりま~す!」と、ドアが閉まって、「あ~助かった!電車に間に合った!」と、ホッとした瞬間!便意を催してきたときにゃ、目的地どころか、次の停車駅までの、何と遠いこと!遠いこと!物理的な距離も心理的な距離も、一気に遠くなる。
「顔」なんか出掛かってきたときにゃ、心の中で、「頼む!急いでくれ!」と、腰低く、低姿勢で電車にお願いしながらも、ゴール直前、馬のケツを思いっきり叩くジョッキーのように、電車のケツを叩きたくなる、もう一人の自分もいたりなんかしちゃったりする。
渡り鳥なのだろうか、都会の決してキレイとは言えない、近所の池や川に、このまえ鴨の大群が浮かんでいた。「へぇ、こんなとこにも、来ることあるんやなぁ」と、そのとき私はそんな風に鴨の群れをしばし眺めていた。
私と同じように、たまたま通りがかりに、その鴨の大群を目にして立ち止まっている人たちが結構いた。
反応もさまざまで、「遠くシベリアから飛んできてお腹も空いてるやろなぁ」とえさをやっている人。むじゃきに「かわいいかわいい」とはしゃぐ子供たち。「アヒルの色つきや!」って言っている人などなど、生き物としての鴨に対して、それぞれにさまざまな反応だった。
しかし、ちょっと一杯引っ掛けて赤い顔したおっちゃんは、「にぃちゃん、あれ、なべにしたらうまいでぇ!」と、食用にしか見えていなかったらしい。
となりで聞いていた正義感溢れる小さい男の子は、「おっちゃん!そんなん、かわいそうやん!」とおっちゃんに反論していて、私も「むじゃきだなぁ」なんて見ていたけれど、私たちは、食べてるんですよねぇ。命を。
一生懸命、何かに打ち込んでいる人を見ると、つい応援したくなってしまう。そのひたむきな姿勢に、人々は心を動かされる。
このまえ、車に乗っていて、信号が赤になって、停止線のところで停車したときのこと。
何気なく後方確認にルームミラーを見てみると、50ccのスクーターに乗ったかわいらしい若い女の子が、私の車の真後ろに停車していた。
何やら急いでいるらしく、腕時計を見ては、すぐにハンドルのバックミラーの方を向いて、ヘルメットから出ている前髪の乱れを軽く触りながら、メイクのチェックをしていた。前カゴには、誰かにプレゼントするのであろう赤い小さな紙袋がバッグと共に入っていた。おそらくデートなんだろう。
けっこう私の好きなタイプの女の子だったので、「こんな女の子とデートできる男がうらやましいなぁ・・・・・・」なんて、ルームミラー越しにその女の子を見ていると、右、左と何やら確認していた。「何かあるのかな?」と、私も左右のドアミラーとルームミラーで周辺を確認してみた。別に変わったようなものがあるわけでもなく、他の車やバイクがあるわけでもなく、私の車と、その真後ろにその女の子のバイクが、路地から大通りへ出ようと信号待ちをしている、どこにでもあるような光景だった。
すると、女の子は、ハンドルのバックミラーにさらに顔を近づけ、両方の鼻の穴を、ムイ!ッて感じで、大きく広げて、左手の人差し指と親指を、左の鼻の穴に突っ込んで、鼻毛を抜き始めた。一回では抜けず、二回、三回とトライしていた。テンポとしては、信号確認!一回トライ!信号確認!一回トライ!・・・・・・みたいな具合で、「もう、信号変わるから、お願い!早く抜けて!早く!」と、まさに必死の様子だった。
一生懸命、何かに打ち込んでいる人を見ると、つい応援したくなってしまう・・・・・・。
混んでいる電車の中で、となりのおっさんがあまりにも堂々と、雑誌のグラビアアイドルの水着写真やスポーツ新聞のエロページを見ていたら、ちょっと目のやり場に困ってしまうことがある。
「このおっさん、こんなに堂々と何を見とんねん!何を!恥ずかしないんか?!恥ずかしく!!」と、同じ男としてちょっと恥ずかしくなったりもする。「こん
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